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まもなく不惑の女が惑いまくる様を記録する日記。

自他境界のことを分かりやすく教えてくれた「十二国記」の話

自分と他人の境界線を「自他境界」と呼んだりする。最近、この境界線について考えることが多い。

人間関係でのトラブルは、この境界線の侵害により起こることが多い気がする。物理的な境界線の侵害はわかりやすい。例えば「自室に勝手に入られる」「自分のスマホを勝手に見られる」「自分のものを壊される」「暴力を振るわれる」など。

境界線は、物理的・空間的なものだけではなくて、心理的なものもある。が、心理的な境界線というのは、わかるようでわかりにくい。心理的な境界線の侵害の例は、多分「自分が大事にしているものを馬鹿にされる」とかが当てはまるのかな。

どこまでが自分の範疇で、どこからが他人の範疇なのか、きちんと線引きできているかどうかで、こちらの心理的健康度も変わってくるし、人間関係上のトラブルに折り合いをつけられるようになるように思う。

「過去と他人は変えられない。変えられるのは、自分と未来」という言葉を聞いたことがあるけど、これも自他境界と関わる言葉だと思う。境界線の向こう側=他人を変えることはできない。

先日、「今日のお題」として本棚を紹介した。その中で扱った「十二国記シリーズ」には名言がたくさんあって、そう言えば私はこの本で自他境界を理解したんだった、ということを思い出したのでメモしておく。

 

 

その一説は「月の影 影の海」の下巻にある。

主人公の「陽子(ようこ)」は、あまりにも理不尽な目にあいつづけ、人間不信になっていた。行き倒れていたところを助けてくれ、その後も良くしてくれる「楽俊(らくしゅん)」のことも心の底から信じることができない。とあるピンチに巻き込まれた時、陽子は楽俊をやむなく見捨てて一時退避。その後、葛藤に苛まれ、陽子は気づく。

 追い詰められて誰も親切にしてくれないから、だから人を拒絶していいのか。善意を示してくれた相手を見捨てることの理由になるのか。絶対の善意でなければ、信じることができないのか。人からこれ以上ないほど優しくされるのでなければ、人に優しくすることができないのか。

 陽子自身が人を信じることと、人が陽子を裏切ることは何の関係もないはずだ。陽子自身が優しいことと他者が陽子に優しいことは、何の関係もないはずなのに。

 ひとりひとりで、この広い世界にたったひとりで、助けてくれる人も、慰めてくれる人も、誰ひとりとしていなくても。それでも陽子が他者を信じず卑怯に振る舞い、見捨てて逃げ、ましてや他者を害することの理由になどなるはずがないのに。

その後、陽子は楽俊と再会。陽子は正直に、楽俊を一度は見捨てようと思ったことを告白し、「もうわたしなんかに、構わなければいいのに」と言う。楽俊はこう答える。

「そんなのはおいらの勝手だ。おいらは陽子に信じてもらいたかった。だから信じてもらえりゃ嬉しいし、信じてもらえなかったら寂しい。それはおいらの問題。おいらを信じるのも信じないのも陽子の勝手だ。おいらを信じて陽子は得をするかもしれねえし、損をするかもしれねえ。けどそれは陽子の問題だな」

この節は何度読んでも感動する。どこからが自分の問題で、どこからが他人の問題なのか。自分の問題を、他人のせいにしていないか。あるいは、他人の問題を「お前のせい」と投げ込まれていないか。

ときどき聞きますよね、DV関係にある人たちの間で、「妻が〇〇だから仕方なく暴力を振るったんだ」みたいなやつ。妻は妻で問題あったのかもしれないけど、暴力振るうのは妻じゃなくてお前の問題だから、ってやつ。でも言われてる方は、「私のせい・・・かも」って思っちゃうんだよなぁ。

他人に影響を受けることはあるし、相互作用はもちろんある。でも、最終的に何を選択するかは自分の自由だし、その責任は自分にある。そして、周りがどうであれ、陽子や楽俊のように、潔く、他人にも自分にも優しく誠実でありたい、ということを、これを読んだ高校3年生のときに強く強く思って、今後の生きていく上での指針が見えたというか、何だか目の前が晴れたような気がしたんだよな。

人生のバイブル十二国記。引用のために下巻を引っ張り出したら読み始めてしまったので、とりあえずここでおしまい。