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まもなく不惑の女が惑いまくる様を記録する日記。

こんなに早く梅雨明けしてどうやって生きていこう

宣言より早く梅雨明けしてたに違いない今夏。毎日毎日暑すぎる。

エアコン掃除も無事に終わり、夜もエアコンつけっぱなし、ニトリのNクールの力も借りて夜は何とか寝てはいる。が、やっぱり眠りが浅い。疲れが取れない。汗をかいて体がかゆくなって起きてしまったりする。

暑いのもつらいが、エアコンの風もなんかつらい。家では直接風を浴びないようにはしているものの、職場ではどうしても浴びざるをえないこともあり、体の表面が冷えてなんだか元気が出ない。

これはもしかして夏バテ?こんなに食欲旺盛なままの夏バテって存在するだろうか?

仕事も低め安定の毎日で、モチベーションが上がらない。昨日夫と「ストレス源は勤労そのもの」という結論になり、笑ったけど軽く絶望。クソ暑い中出勤するだけでも疲労困憊。これがあと一ヶ月以上続くんでしょう…?厳しすぎる!

もはや日本で生きていくのは無理かもしれないとかまで思う。せめて北海道?でも冬寒いのもきついしなぁ…渡鳥になるしかないのか…

盲目的にニューバランスを買い続ける女

以前、三浦大知がアンバサダーを勤めてから、靴はニューバランスばかり履いている。ずっとメインで履いていたスニーカー、最近は霧雨程度の雨でも滲みてくるようになってしまい、裏返してみたら底がすり減りまくって穴があいて中の素材が見えていた。

デザインも履き心地も気に入っていたので、すっかり同じものを探したが、どうやら廃盤になってしまったらしく、見つからない。

そこで、ネットで調べて割と評価の良かった、こちらを購入してみた。

 

 

そしたら!何と言うことでしょう!めちゃくちゃ履き心地が良い!

足がふわっとした感じに包まれておりその感触が心地よく、何より軽い!足先や足の甲にも余計なぶつかりがなく、痛くない!

別のモデルのニューバランスも数ヶ月前に購入したんだけど、それは同じサイズなのにちょっとキツいんだよな…。

今回は、オンラインショップ限定カラーの黒を購入。

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靴紐も黒なのが私的に好きなポイント。靴紐がいつも解けてくるので二重に結ぶんですが、ほかに良い方法ないのかな。

以前はヒールありのパンプスも履いていたが、前の部署から、仕事的にいつ何が起こるか分からなかったり、急に外出したり、身の危険を感じる場合もあるので、「いつでも逃げられる」「疲れにくい」を重視して毎日スニーカーになってしまいました。

良いものに出会えたので、また底が抜けるまで履き潰そうと思う。

「DAIGOも台所」に癒される週末。

上沼恵美子のおしゃべりクッキングの後継番組、「DAIGOも台所」がアツイ。

【公式】DAIGOも台所~きょうの献立 何にする?~ – Onnela[オンネラ]|おうちのなかを、もっとしあわせに。

放送開始されてすぐに某SNSでも話題になっていたが、DAIGOの料理初心者っぷり、品の良さ、一生懸命さ、ちょっとした笑いをまぶすセンスに加え、講師陣がほっこり優しく穏やか。「褒めて伸ばす」とはまさにこのこと。

私が特に楽しみにしているのが金曜日。私にとっての神、山本ゆりさんが講師だからだ。

山本ゆりオフィシャルブログ「含み笑いのカフェごはん『syunkon』」Powered by Ameba

山本ゆりさんのレシピ本は5冊くらいは持っている。レシピ本持ってるのに、毎日スマホで「食材名 山本ゆり」で検索してレシピを決めている。山本ゆりさんのレシピは、とにかく美味しい。そして、簡単なものが多い。「地に足がついている」感じがする。急に「ガラムマサラ 5g」とか「レモンの皮 少々」とか言ってこない。あとは、食材や調味料の量なんかも、割と適当でいいのもありがたい。「タマネギがなかったら長ネギでOK!」「味が濃くなれば水で薄めれば良い!」など、言われてみれば当たり前のことであっても、料理初心者はレシピ通りにしか作れないので、こういう緩さが料理へのハードルを下げる。山本ゆりさんに出会って、私は格段に料理する回数が増えた。

そんなゆりさんが毎週金曜日は講師になり、料理初心者のDAIGOに一人で料理をさせる。先日はオムレツを作っていたが、皿に盛り付ける瞬間にCMが入り、金曜ロードショーかい!と笑った。ゆりさんは関西弁でお話されるので、ちょいちょいDAIGOにもツッコミを入れるのが小気味いい。ただ、まだまだ遠慮されているのか、ツッコミが優しいので、もっとズバッといってくれると更に面白くなりそうな気がする。DAIGOも分かっててボケてる気がするし。

TVerで1〜2週間はまとめて見れるので、週末になると一気見して癒されている。世の中の人にも、ぜひオススメしたい。

それにしても、DAIGOのことが羨ましい。山本ゆりさんに料理を教わることもだし、何かあるとすぐに講師陣に「先生!こうですか!?」「先生!あってますか!?」と聞き、「出来てます!」「完璧です!」というレスポンスをもらえている。今年4月に新しい部署に異動し、ほぼほぼ放置のまま、見よう見まね、独断と偏見、昔取った杵柄で仕事をすすめている私としては、本当なら彼のように細々としたことで「こうですか!?」「あってますか!?」って聞きたいし、「出来てます!」とか「違います!」とか言われたい。

人材育成にも参考になりそうな料理番組。それが「DAIGOも台所」なのであった。

梅雨入りしたのに全然雨降らない。

暑い。湿度だけは、間違いなく梅雨である。

週に1回くらいはサウナに行く生活をしており、暑さや汗をかく事に対する耐性は出来ていると思っていたが、ここ数日の暑さにやられたのか、はたまた仕事への拒否反応か、一昨日から体調がかんばしくない。

一昨日は倦怠感。昨日は頭痛。今日はめまい。熱はないので、新型コロナでは無いと思っている。

ちょっと外を歩くだけで息切れがして、ダルさや体の重さを感じ、なんならクラクラするわけで、閉経してないけど更年期障害なのでは?とか、学校適応の難しい子どもがなる起立性調節性障害なのでは?とか自己診断している。学校に行きたくない子どもと私は、質的には同じだからな。

自宅でまだエアコンをつけずに頑張っているのも、体調不良の原因の一つかもしれない。エアコン内のカビ取り掃除をしてから稼働させようと思って、まだつけていなかった。カビ取りは、業者に頼む話も出ていたが、結局何も動かない私に剛を煮やしたのか、今週末に夫が自力でやってみるらしい。Amazonで色々購入していた。

 

ガチ掃除になりそう。でも自分でできたらだいぶお得。しかし今週末も暑くなりそうなので、エアコン掃除のせいで熱中症になるなんてコントみたいなことにならないといいなと思う。

自他境界のことを分かりやすく教えてくれた「十二国記」の話

自分と他人の境界線を「自他境界」と呼んだりする。最近、この境界線について考えることが多い。

人間関係でのトラブルは、この境界線の侵害により起こることが多い気がする。物理的な境界線の侵害はわかりやすい。例えば「自室に勝手に入られる」「自分のスマホを勝手に見られる」「自分のものを壊される」「暴力を振るわれる」など。

境界線は、物理的・空間的なものだけではなくて、心理的なものもある。が、心理的な境界線というのは、わかるようでわかりにくい。心理的な境界線の侵害の例は、多分「自分が大事にしているものを馬鹿にされる」とかが当てはまるのかな。

どこまでが自分の範疇で、どこからが他人の範疇なのか、きちんと線引きできているかどうかで、こちらの心理的健康度も変わってくるし、人間関係上のトラブルに折り合いをつけられるようになるように思う。

「過去と他人は変えられない。変えられるのは、自分と未来」という言葉を聞いたことがあるけど、これも自他境界と関わる言葉だと思う。境界線の向こう側=他人を変えることはできない。

先日、「今日のお題」として本棚を紹介した。その中で扱った「十二国記シリーズ」には名言がたくさんあって、そう言えば私はこの本で自他境界を理解したんだった、ということを思い出したのでメモしておく。

 

 

その一説は「月の影 影の海」の下巻にある。

主人公の「陽子(ようこ)」は、あまりにも理不尽な目にあいつづけ、人間不信になっていた。行き倒れていたところを助けてくれ、その後も良くしてくれる「楽俊(らくしゅん)」のことも心の底から信じることができない。とあるピンチに巻き込まれた時、陽子は楽俊をやむなく見捨てて一時退避。その後、葛藤に苛まれ、陽子は気づく。

 追い詰められて誰も親切にしてくれないから、だから人を拒絶していいのか。善意を示してくれた相手を見捨てることの理由になるのか。絶対の善意でなければ、信じることができないのか。人からこれ以上ないほど優しくされるのでなければ、人に優しくすることができないのか。

 陽子自身が人を信じることと、人が陽子を裏切ることは何の関係もないはずだ。陽子自身が優しいことと他者が陽子に優しいことは、何の関係もないはずなのに。

 ひとりひとりで、この広い世界にたったひとりで、助けてくれる人も、慰めてくれる人も、誰ひとりとしていなくても。それでも陽子が他者を信じず卑怯に振る舞い、見捨てて逃げ、ましてや他者を害することの理由になどなるはずがないのに。

その後、陽子は楽俊と再会。陽子は正直に、楽俊を一度は見捨てようと思ったことを告白し、「もうわたしなんかに、構わなければいいのに」と言う。楽俊はこう答える。

「そんなのはおいらの勝手だ。おいらは陽子に信じてもらいたかった。だから信じてもらえりゃ嬉しいし、信じてもらえなかったら寂しい。それはおいらの問題。おいらを信じるのも信じないのも陽子の勝手だ。おいらを信じて陽子は得をするかもしれねえし、損をするかもしれねえ。けどそれは陽子の問題だな」

この節は何度読んでも感動する。どこからが自分の問題で、どこからが他人の問題なのか。自分の問題を、他人のせいにしていないか。あるいは、他人の問題を「お前のせい」と投げ込まれていないか。

ときどき聞きますよね、DV関係にある人たちの間で、「妻が〇〇だから仕方なく暴力を振るったんだ」みたいなやつ。妻は妻で問題あったのかもしれないけど、暴力振るうのは妻じゃなくてお前の問題だから、ってやつ。でも言われてる方は、「私のせい・・・かも」って思っちゃうんだよなぁ。

他人に影響を受けることはあるし、相互作用はもちろんある。でも、最終的に何を選択するかは自分の自由だし、その責任は自分にある。そして、周りがどうであれ、陽子や楽俊のように、潔く、他人にも自分にも優しく誠実でありたい、ということを、これを読んだ高校3年生のときに強く強く思って、今後の生きていく上での指針が見えたというか、何だか目の前が晴れたような気がしたんだよな。

人生のバイブル十二国記。引用のために下巻を引っ張り出したら読み始めてしまったので、とりあえずここでおしまい。

「安くて良いものを探す」VS「高くても良いものを買う」

夫は割と倹約家?で、「安くて良いもの」または「安くてそこそこのもの」を選択することが多く、何か買おうとするとまずは100均で探し、良いのが無ければAmazonで探す、ということが多い。

一方私は、見栄っ張りなこともあって安っぽいものがあまり好きではなく、何なら高ければ高いほど質も良いと思っている(思い込んでいる)。出せる範囲の金額であれば、多少高額になっても構わないタイプ。

しかし私は相手に合わせる傾向もあるので、夫と付き合うようになってから、「安さ」をそれなりに重視するようになってきた。また、これまで散財傾向だったのは、「独り身だし、使えるうちに自分にお金を使ってしまおう」という思いもあったからなので、めでたく独り身ではなくなった時に、自発的に気持ちを切り替えていた部分もあった。

安くて良いものを見つけると、すごくお得な気分になり満足感が高い。安くて良いもの探しは楽しい。しかし、何をもって「良いもの」と判断するかの個人内基準は、簡単には下がらないようで、じわじわと、「やっぱり安かろう悪かろうなんじゃないの…?」という気持ちになりつつある。

先日、愛用していたホーム用プロジェクターが壊れた。夫と出会う前に購入し、今は廃盤となっているが、当時5万円以上した台湾メーカーのモデルだった。サポートにメールしたら、「多分修理。2万5000円以上かかる」との返信。夫に報告したところ、すぐにAmazonで検索し、「多分これが良いと思う」と中国メーカーの、2万円ちょっとで、評価も高いプロジェクターを見つけてきた。私も評価を確認し、それを購入してみたんだけど、正直ちょっと後悔している。

まずはデカい。前のプロジェクターは手のひらサイズだったが、今のは広辞苑サイズ。次に壁からの距離。壁から結構離さないと大きく映らない。前のは壁から1メートル以内でもそれなりのサイズになっていたのに、今では普段自分達が座っている位置にプロジェクターを置かないといけない。最後に鮮明さ。壁に対して垂直の位置に置かないと、画面の端の方がピントが合わない。サイドテーブルの上に、家の中で散らばっていたいろんな箱を積み重ねてその上にプロジェクターを置かないと、字幕はぼやけて読むのが大変である。

改めてAmazonの評価をちゃんと読むと「一台目には最適!」との声多数。一台目に割とハイクオリティなモデルを選んだ人には向かない、という評価は、見つけることができなかった。

今後は、自分の小遣いでいいから、高くても良いものを買おう。そう固く心に決めたのだった。

超消極的な妊活をしています

超消極的な妊活、それはただただ「自然に任せる」というだけの方法であり、妊活と呼べるのか不明である。

というのも、私は数ヶ月前までピルを飲むことで完全防備をしていた。しかし、夫と話し合い、というかほぼ一方的に「ピルやめようと思う」と宣言し「いいと思う」と言わせた形で、ピルをやめた(夫も色々な思いがあるようで、そもそも妊活には抵抗を示された。この話はまた別に)。

その後は葉酸のサプリを飲み始めたが、それ以上のことはしておらず、排卵日っぽいタイミングと気分が乗ったタイミングで致しているのみである。

なんならお断りすることすらある。

夫のお誘いを断った後どのように振る舞うのが正解なのか問題 - スペース

この状況を本気で妊活している人に知られたら、「お前やる気あんのか」と激怒されそうであるが、これには私なりの言い訳がある。

 

私は「絶対に子どもが欲しい」と思う人や、「絶対」とまではいかずとも、自然と、当たり前に子どもを希望する人に対して、尊敬の念を持っている。その人たちには、「自分は親になれる」という自信が、例え意識化されていなくても心の根底にあるから、子どもが欲しいと言えるのではないか、と思うからだ。逆に言えば、私は親になるのが怖い。「自分の腹に子がなる」という状況も、なんだか恐ろしい。産まれた後には自分の乳から母乳が出るというのも、少し気味が悪いとすら感じる(他人の乳から出ている分にはなんとも思わない)。どんな子が産まれてくるかわからないことも、年齢も年齢だけあってビビってしまう。ちゃんと育てられるのか、自分が母親から感じたような思いをさせずに育てられるのか、という、自分で自分にかけてしまうプレッシャーもある。また、子どもができることで、夫との今の良好な関係性が変わってしまうかもしれないのも怖い。

「そんなんだったら、子どもは作らなくてもいいではないか」と思われるだろう。しかし、なぜか私は、「子どもは作らなくてもよい」とまで思い切れない。

それは多分、「子どもの気持ちがわかる母親(大人)になりたい」という思いが、これまでの私の行動原理や指向性の根底に常にあったからだ。現状、「母親」と「大人」はニアイコールで結ばれているものの、完全なるイコールではないため、母親になることが怖いけれども、切ることもできないでいる。親になりたいからこそ、親になるのが怖いのだろう。そこに「ちゃんとした」という形容詞を自分でつけてしまうから、ハードルを爆上げしてしまうのだろう。

そういう迷いが妊活のやり方にも現れていて、もはやギャンブル、当たるも八卦当たらぬも八卦状態。年齢的にかなり厳しくなってきているのは理解しているつもりであり、一ヶ月に数日間しかチャンスはないというシビアさもようやく理解してきているものの、ギャンブル妊活を数ヶ月続けている。それでも、生理がくるとちょっとがっかりする。

今月、生理が来ず、「まさか!?」と思ったが、ただ数日遅れてただけだった模様。

この葛藤を整理してから(生理だけに)本気で妊活するのが正しいのだろうが、時間的猶予がないので、超消極的な妊活、という形で見切り発車しているのだった。いずれ超がとれて、消極的から積極的に変化することもあるかもしれないが、とにかくこの葛藤には、ちゃんと付き合っていかないといけないと思う。