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まもなく不惑の女が惑いまくる様を記録する日記。

超消極的な妊活をしています

超消極的な妊活、それはただただ「自然に任せる」というだけの方法であり、妊活と呼べるのか不明である。

というのも、私は数ヶ月前までピルを飲むことで完全防備をしていた。しかし、夫と話し合い、というかほぼ一方的に「ピルやめようと思う」と宣言し「いいと思う」と言わせた形で、ピルをやめた(夫も色々な思いがあるようで、そもそも妊活には抵抗を示された。この話はまた別に)。

その後は葉酸のサプリを飲み始めたが、それ以上のことはしておらず、排卵日っぽいタイミングと気分が乗ったタイミングで致しているのみである。

なんならお断りすることすらある。

夫のお誘いを断った後どのように振る舞うのが正解なのか問題 - スペース

この状況を本気で妊活している人に知られたら、「お前やる気あんのか」と激怒されそうであるが、これには私なりの言い訳がある。

 

私は「絶対に子どもが欲しい」と思う人や、「絶対」とまではいかずとも、自然と、当たり前に子どもを希望する人に対して、尊敬の念を持っている。その人たちには、「自分は親になれる」という自信が、例え意識化されていなくても心の根底にあるから、子どもが欲しいと言えるのではないか、と思うからだ。逆に言えば、私は親になるのが怖い。「自分の腹に子がなる」という状況も、なんだか恐ろしい。産まれた後には自分の乳から母乳が出るというのも、少し気味が悪いとすら感じる(他人の乳から出ている分にはなんとも思わない)。どんな子が産まれてくるかわからないことも、年齢も年齢だけあってビビってしまう。ちゃんと育てられるのか、自分が母親から感じたような思いをさせずに育てられるのか、という、自分で自分にかけてしまうプレッシャーもある。また、子どもができることで、夫との今の良好な関係性が変わってしまうかもしれないのも怖い。

「そんなんだったら、子どもは作らなくてもいいではないか」と思われるだろう。しかし、なぜか私は、「子どもは作らなくてもよい」とまで思い切れない。

それは多分、「子どもの気持ちがわかる母親(大人)になりたい」という思いが、これまでの私の行動原理や指向性の根底に常にあったからだ。現状、「母親」と「大人」はニアイコールで結ばれているものの、完全なるイコールではないため、母親になることが怖いけれども、切ることもできないでいる。親になりたいからこそ、親になるのが怖いのだろう。そこに「ちゃんとした」という形容詞を自分でつけてしまうから、ハードルを爆上げしてしまうのだろう。

そういう迷いが妊活のやり方にも現れていて、もはやギャンブル、当たるも八卦当たらぬも八卦状態。年齢的にかなり厳しくなってきているのは理解しているつもりであり、一ヶ月に数日間しかチャンスはないというシビアさもようやく理解してきているものの、ギャンブル妊活を数ヶ月続けている。それでも、生理がくるとちょっとがっかりする。

今月、生理が来ず、「まさか!?」と思ったが、ただ数日遅れてただけだった模様。

この葛藤を整理してから(生理だけに)本気で妊活するのが正しいのだろうが、時間的猶予がないので、超消極的な妊活、という形で見切り発車しているのだった。いずれ超がとれて、消極的から積極的に変化することもあるかもしれないが、とにかくこの葛藤には、ちゃんと付き合っていかないといけないと思う。